情報通信研究機構(NICT)は9月24日、「たった今見たもの」「たった今聞いたこと」を鮮明に覚えている即時記憶について、その分子的な基盤を発見したと発表した。未来ICT研究所の吉原基二郎上席研究員、櫻井晃研究マネージャー、藤居孝聡研究技術員のグループによる成果で、論文は9月21日付で米国科学アカデミー紀要(PNAS)に掲載された。記憶の入り口にあたる段階に実験的な手がかりが得られたのは初めてだという。

80年以上、現象だけが知られていた

神経細胞は、電気的な信号である活動電位がシナプスに次々と届くと、後から来た信号のほうが伝達が強くなる。前の信号で細胞内に流れ込んだカルシウムがまだ残っているためで、この現象は「即時性シナプス増強」と呼ばれる。NICTによると、最初の報告は太平洋戦争が始まる直前の1940年で、その後もエックルスやカッツといった神経生理学の代表的な研究者が取り組んできた。

にもかかわらず、何がこの増強を引き起こしているのか、そしてそれが脳にとって何の役に立っているのかは、長く分からないままだった。かつては「シナプス促通」と訳されてきたが、NICTは今回の解明を機に、電気生理の記録や脳内で起きていることを直感的に想像しやすい「即時性シナプス増強」という訳語に改めたいとしている。

抑える部位と、その抑えを外す部位

グループが着目したのは、シナプトタグミンと呼ばれるタンパク質の一群である。そのうちシナプトタグミン7(Syt7)は、低い濃度のカルシウムに反応する性質を持つ。研究では、可塑性に富み詳細な遺伝解析ができるショウジョウバエ胚のシナプスを使い、このSyt7が前の活動で残ったカルシウムに反応して、神経伝達物質を放出する確率を上げていることを見いだした。

仕組みはやや入り組んでいる。Syt7は同じ分子の中にC2A、C2Bと呼ばれる2つの部位を持ち、ふだんはC2Bが放出を抑え込んでいる。カルシウムに反応したC2Aがその抑え込みを外すことで、放出の確率が上がるという順序だ。つまり増強は、アクセルを踏む仕組みではなく、常にかかっているブレーキを緩める仕組みだった。

この点について、NICTは過去の研究の解釈にも触れている。2016年に英科学誌ネイチャーに発表された論文は、Syt7を働かなくしたマウスで即時性シナプス増強が見られないことから、Syt7がこの増強のカルシウムセンサーとして同定されたかのように受け取られた。だが抑制を解除するにはまず抑制がかかっている必要があり、抑制がなければそもそも増強は起こり得ない、というのが今回の説明である。NICTのグループは2021年3月にも、Syt7の量が多いほどシナプス伝達を強く抑えることを発表していた。

増強を失ったハエは、記憶にも異常が出た

遺伝解析を進める過程で、即時性シナプス増強だけが失われた突然変異体がいくつも見つかった。グループは、この成虫を使ってパブロフ条件反射の実験にかけた。2021年8月に発表した独自の実験系で、エサの刺激でしか働かないはずの摂食を司令する神経細胞が、別の刺激に反応するよう変わっていく過程を捉えられるものだ。

結果、突然変異体には明らかな記憶の異常が現れた。シナプスの伝達を瞬間的に強める仕組みそのものが、即時記憶の脳内での実体の少なくとも一部である可能性を示している。

即時記憶は、しばしば短期記憶と混同される。NICTの整理では、短期記憶が1秒以下から数分ほど保たれた後に消える記憶を指すのに対し、即時記憶はすべての記憶の初期段階で生じるものを指す。心理学者ヘッブが1949年の著書で、脳はまず即時的にシナプスを強め、その生理学的な変化が時間をかけてシナプスの形の変化を引き起こして記憶を保ち続ける、と考えた、その最初の段階にあたる。「瞬時に爪痕を残す生理学的な変化とは何か」という問いに初めて答えたのが今回の研究だ、とNICTは位置づけている。

情報通信の研究機関が脳を調べる理由

通信を担う研究機関が記憶の分子機構を扱うのは唐突にも見えるが、NICTは未来ICT研究所の記憶神経生物学プロジェクトで、脳内の情報通信の鍵である記憶の基本原理を追い、それを情報通信に応用する研究に取り組んでいる。脳の記憶の仕組みが明らかになれば、脳の働きにより近い知的情報処理を設計できるという考え方だ。同研究所は9月にも、大阪大学などとの共同研究で量子コンピュータをつなぐ光の並列接続、世界最多の10本に 阪大・NICT・浜松ホトニクス 1台1万量子ビットの上限を超えるための一歩という成果を発表しており、次世代の情報処理の土台にあたる研究を複数の方向から進めている。

医療への波及も見込まれている。双極性障害の患者ではSyt7が少ないことが報告されており、NICTは、そのぶん神経修飾物質の分泌を抑える働きが足りず分泌が過剰になることが症状に影響している可能性があると説明する。患者に見られるワーキングメモリーの異常も、即時記憶の仕組みから理解できるという。Syt7はシナプスに限らず分泌一般で働くと予想されるため、双極性障害と糖尿病が併発しやすいという従来の謎も、血糖値の制御に関わるホルモンの過剰分泌として一続きに説明できると推測している。がんへの関与も報告されており、創薬への応用も期待されるとした。

今後は、信号を受け取る側の神経細胞の働きが即時記憶から長期記憶への変換にどう関わるかを調べる。グループが2005年に米科学誌サイエンスで提唱した「局所フィードバック仮説」の検証に進む方針だ。研究の一部は文部科学省の科学研究費補助金を受けて行われた。