日本銀行の小枝淳子審議委員は10月15日、熊本県金融経済懇談会で挨拶し、今後の利上げについて「緩和的な金融環境が続くもと、物価上昇リスクが相応にあることを踏まえれば、利上げに過度に慎重になることはないと考えています」と述べた。景気を熱しも冷ましもしない「中立金利」の水準については「推計レンジの下限の目安である1%よりは相応に上である」との見方を示した。日銀は挨拶の要旨を同日、ウェブサイトに掲載した。
「利上げに過度に慎重になることはない」
日銀は9月18日の金融政策決定会合で、短期の政策金利(無担保コールレート翌日物)の誘導目標を1.25%程度へ引き上げた。採決は賛成7、反対2で、小枝氏は賛成した側に入っている。今回の挨拶は、この利上げ後に小枝氏が自身の考えを公の場で説明したものだ。
小枝氏は今後の利上げについて「中立金利の推計レンジを念頭に置きつつ、経済・物価の状況をみながら、政策金利を適時に調整していくべきだ」と述べた。そのうえで、確認にあたっては「プラスの金利が経済活動の前提となるなかで、分析の視野を広げ解像度も上げることも重要」とし、冒頭の「過度に慎重になることはない」との認識につなげた。
判断の土台となる物価について、小枝氏はこの1年ほど、基調的なインフレ率を「総じてみれば2%ぐらい」と述べてきたと振り返った。消費者物価指数(CPI)では幅広い品目の値上がりが数年続き、「500以上ある財・サービス品目のうち7割超で前年比での価格上昇がみられています」と説明した。品目ごとの前年比を並べた分布では、ゼロ近くにあった山が低くなり、重心が右へ移っているという。2026年度に入ってからの品目別前年比の中央値は「2%台前半」で、前年度並みの水準だとした。賃金も全体として安定的に上がっているとし、「わが国の物価上昇率は、以前より持続的なものに定着しつつある」と結論づけた。
足元の動きでは、CPIの前年比に「上昇幅拡大の兆し」がみられると指摘した。例として外食のすしを挙げ、堅調な訪日客の需要を背景に、円安で値上がりした輸入食材の価格を転嫁する動きが前年比を押し上げているとの見方を示した。
日銀内では利上げの必要性を説く声が続いている。植田和男総裁は10月6日の挨拶で利上げ継続の方針を示しており、その内容は日銀・植田総裁「引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく」 全国証券大会で挨拶 2%超えの上振れを抑える観点が「これまでよりも重要に」で伝えている。
中立金利は「1%よりは相応に上」
挨拶の柱の一つが中立金利の水準だった。中立金利とは、経済や物価に対して緩和的にも引き締め的にも働かない金利水準を指す。政策金利がこれより低ければ景気を温める方向に、高ければ冷ます方向に働くと考えられており、利上げをどこまで続けるかを考える際の目安になる。直接観察することはできないため、推計に頼るしかない。
小枝氏によると、日銀が公表している物価変動を除いた実質ベースの自然利子率の推計は「マイナス0.9%程度からプラス0.5%程度」の範囲にある。これに2%の物価目標を加えて名目に直すと、中立金利のレンジは「プラス1.1%程度からプラス2.5%程度」になる。
| 中立金利の見方(小枝氏の挨拶から) | 水準 |
|---|---|
| 日銀公表の自然利子率(実質) | マイナス0.9%程度〜プラス0.5%程度 |
| 2%を加えた名目の中立金利 | プラス1.1%程度〜プラス2.5%程度 |
| 「潜在成長率+2%」とみる場合 | 現在2%を超えるとの見方もある |
| 小枝氏の見方 | 下限の目安の1%より「相応に上」 |
| 現在の政策金利(9月18日決定) | 1.25%程度 |
小枝氏は中立金利の候補として二つの考え方を挙げた。一つは、長い目で見て自然利子率が潜在成長率にほぼ等しいと仮定し、それに2%の物価目標を加える方法だ。潜在成長率が小幅のプラスで推移していることから、この数字は「現在2%を超えているという見方もある」と述べた。もう一つは、金利モデルで短期金利が長期的に戻っていく「収束値」を使う方法だ。日本では長くゼロ%近くの金利が続いたため、その時代を含めて推計すると収束値は低く出るが、プラスの金利環境へ移るなかで「以前より高い位置に切り上がっている可能性が相応にある」とした。
こうした考察を踏まえ、小枝氏は中立金利が下限の目安である1%よりも「相応に上」との見方を示した。政策金利はいま1.25%程度で、この見方に立てば、政策金利はなお中立金利を下回っている可能性があり、利上げの余地が残ることになる。中立金利の推計をめぐっては、増一行審議委員も9月の挨拶で論じており、日銀の増審議委員「さらなる利上げが金融正常化の完成に求められる」 政策金利1.0%は中立金利の推計1.1〜2.5%を下回る 17〜18日に決定会合で伝えている。
長期金利については、政策金利が中立金利に近づいたと市場が受け止め、先行きの政策金利の予想が定まれば、長期ゾーンの金利の動きは「リスクプレミアムが主導することになる」と述べた。財政要因やインフレリスク、機関投資家の金利の目線などがリスクプレミアムに与える影響を注視するとした。
AI・地政学・自然災害の「3つの視点」
小枝氏は経済・物価を見るうえで最近特に意識している点として、AI、地政学リスク、自然災害リスクの三つを挙げた。
AIについては、ここ数か月から半年ほどの最先端のAIの進展に「目を見張るものがあります」と述べた。短期的には関連輸出や省人化投資が需要を喚起し、世界的に強いAI関連需要が物価の上昇圧力になっているとみる。米国経済ではAI関連の設備投資が大きく伸びているという。一方で、AIが人手不足を補う投資や生産性向上を後押しし、潜在成長率を押し上げるかどうかは「金融政策スタンスを考える上でも注目度が高い」とした。
地政学リスクについては、2022年春のウクライナ情勢や今年春の中東情勢のように、リスクが表面化する頻度が増していると指摘した。そのたびに原油など国際商品の価格が大きく上がり、近年は危機時に円が買われる「有事の円高」も起きにくくなっているという。今春の中東情勢の緊迫時にも、原油高のなかで円安基調が続いた。エネルギーと食料を輸入に頼る日本では物価が上がりやすい地合いにあるとして、物価上昇リスクに「以前よりも注意を払う必要がある」と述べた。
景気については、企業収益が高い水準にあり、今月公表の短観でも業況判断に大幅な悪化は確認されていないとした。需要と供給の差を示す需給ギャップは「引き続きプラス」で、経済の状況は「総じてみれば、引き続き悪くない」との認識を示した。ただ、実質国内総生産(GDP)では民間需要にやや弱めの動きがあり、純輸出の伸びも輸出の拡大より、中東情勢を受けた石油関連製品の輸入減少による部分が大きいと注意を促した。
住宅ローンを抱える家計、企業の資金繰りは
利上げの影響について、小枝氏は家計と企業の状況にも触れた。家計の負債の大部分を占める住宅ローンは、多くが短期プライムレートなどに連動する変動金利型で、現役世帯が抱えている。そのうえで、住宅を買う20代、30代は比較的賃金の伸びが高く、40代、50代になるにつれ利子を生む金融資産も積み増されていくとして、足元の金利上昇が現役世帯の消費を「必ずしも冷やすわけではない」との見方を示した。ただ、これまでの利上げが家計の行動に及ぼす影響は「丁寧に確認していきたい」と述べた。
企業については、資金繰りや金融機関の貸出態度に大きな変化はなく、資金調達環境は「総じてみれば引き続き良好」と判断した。9月短観の設備投資計画も全体としてしっかりしているとした。中小の非製造業には弱めの動きもあるが、大きな悪化は確認されていないという。設備投資計画を押し下げる要因としては、金利上昇よりも「工事費高騰に伴う見直し」や「工期の遅れ」などが挙がっていると紹介した。
日銀が進める国債買い入れの減額にも言及した。6月の決定会合では、2027年3月までは原則として四半期ごとに2,000億円程度ずつ減らし、2027年4月以降は月2兆円程度の買い入れを続けることを決めている。小枝氏は、少なくとも数年間は償還額が買い入れ額を大きく上回る状況が続くと説明し、極めて大きいバランスシートの正常化を「粛々と進める必要がある」と述べた。
震度7の地震から2か月半の熊本で
挨拶の冒頭、小枝氏は「令和8年熊本地震」の被災者に見舞いを述べ、地震から2か月半ほどがたっても影響が各所に残っているとの認識を示した。熊本県では平成28年の熊本地震以降、令和2年7月豪雨、令和7年8月豪雨と大きな災害が続き、今年7月には震度7を観測する地震が起きた。
小枝氏は日銀熊本支店の聞き取りとして、企業から、設備や建物の耐震化・免震化、事業継続計画(BCP)の策定が被害を抑えたとの声が多く聞かれたと紹介した。断水のなかで、あらかじめ備えていた井戸が役立ったとの声もあったという。10年前の地震の教訓が随所で生かされたとし、自然災害に見舞われやすい日本にとって熊本の経験が広く共有されることが大切だと述べた。
県経済の今後については、この10年の大きな成果として半導体産業の集積を挙げた。熊本県が昨年3月に策定した「くまもとサイエンスパーク推進ビジョン」は、台湾のサイエンスパークを参考に、自然環境と調和した「分散型サイエンスパーク」をつくり、立地企業や大学・研究機関の共同研究を進めることを基本理念に掲げている。小枝氏は、熊本が東アジアを代表する産学官の連携拠点として「新生シリコンアイランド九州」をけん引していくことに期待を示した。農業や観光、医療・教育といった強みを生かして人材と企業を引きつけることも重要だとした。
日銀の審議委員は、各地の金融経済懇談会で地元の行政や経済界と意見を交わしている。小枝氏は5月21日にも、福岡県金融経済懇談会で同じ「わが国の経済・物価情勢と金融政策」と題して挨拶している。
