女子プロボウラーの1期生で、1970年に女子プロ初のパーフェクトゲームを達成した中山律子(なかやま・りつこ)さんが11月7日、死去した。84歳だった。公益社団法人日本プロボウリング協会(JPBA)が同日、公式サイトで発表した。

協会によると、中山さんは病気療養中だった。死因と亡くなった場所は発表に書かれていない。葬儀・告別式は「現在確認中」で、詳細が判明次第あらためて知らせるとしている。協会の選手データによると、生年月日は1942年10月12日で、出身地は鹿児島県だった。

協会は発表の中で、中山さんの歩みを「ボウリング界に一大ブームを巻き起こす」と記し、協会とジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)の会長、名誉会長として業界の発展に貢献したと紹介した。

バレーボールから転じ、第1回テストに2番で合格

中山さんの歩みは、公益財団法人笹川スポーツ財団が、プロ45周年の時期に本人へ聞いたインタビューに詳しい。それによると、中山さんは群馬県に生まれ、父母の出身地である鹿児島県へ移った。鹿児島市立鹿児島女子高校でバレーボールに打ち込み、卒業後は愛知県の旭精機工業の実業団チームに進んだ。チームの解散が決まり、20歳で鹿児島へ戻り、父の仕事の関連先だった結核予防会で働き始めた。

初めてボウリングを投げたのは22歳ごろで、友人に誘われてのことだった。スコアは85点だったという。当時は1ゲーム180円から200円だった。その後、アマチュアの試合に出るようになり、1967年に大阪の大会の女子個人の部で準優勝した。このとき優勝したのが、のちにライバルとなる須田開代子さんだった。この大会をきっかけに東京タワーボウリングセンターからスカウトされ、上京した。

協会は1967年1月27日に発足しており、男子プロが先に生まれていた。女子の第1回プロテストは1969年6月に開かれた。合格の基準は、1日9ゲームを4日間投げてアベレージ180以上を出すことだった。45人が受験して13人が合格し、須田さんが1番、中山さんが2番、石井利枝さんが3番で通った。この順位がそのままライセンス番号になった。中山さんのライセンスは「No.2」で、本人は「私は2番で良かった」と振り返っている。

1970年、テレビ中継の決勝で女子プロ初の300点

名前が広く知られたのは、プロ2年目の1970年だった。協会の略歴によると、テレビ生中継された東日本月例会の決勝戦で、女子プロとして初めてパーフェクトゲームを達成した。パーフェクトゲームは、12回続けてストライクを取り、300点満点を出すことを指す。

インタビューによると、達成は1970年8月21日で、会場は府中スターレーンだった。本人の話では、観客は1000人ほど入っていた。当日は会場へ向かうタクシーが接触事故を起こし、到着は開始の間際になった。「今日は気楽に行けばいいや」と臨んだことで余分な力が抜けたと語っている。最後の1投は投げたあと目をつぶり、ボールの行方を見ていなかった。

協会の略歴は、同じ1970年に日本スポーツ大賞の殊勲賞を受け、NHK紅白歌合戦の審査員を務めたと記す。翌1971年にはテレビCM「さわやか律子さん」が大きな反響を呼んだ。インタビューによると、これはシャンプーのCMで、中山さんは「どこへ行っても『律子さーん』と声をかけられる」ようになった。移動中の電車で2時間半サインを続けたこともあり、手が腫れてボールに指が入らない日もあったという。

年間1414ゲーム、通算33勝

協会の選手データには、当時の出場の規模が数字で残っている。公式戦のゲーム数は1970年の248から1971年に1007へ増え、1973年には1414に達した。

中山律子さんの公式戦ゲーム数(年度別)(ゲーム)

05001,0001,5002,0001271,4142471969年1971年1973年1975年1976年
出典: 日本プロボウリング協会「選手データ」
数値で見る(単位: ゲーム)
項目ゲーム
1969年127
1970年248
1971年1,007
1972年1,280
1973年1,414
1974年884
1975年560
1976年247

年度別の順位は1969年、1970年、1973年が1位だった。1973年はアベレージ199.71、獲得賞金782万2000円を記録している。1969〜76年でアベレージが最も高かったのは1971年の200.98で、選手データに載る年度全体の最高は1987年の204.08だった。本人は、多い年には年に85〜90本の試合があったと話している。

通算の成績は33勝、9846ゲーム、194万811ピンで、通算アベレージは197.11、獲得賞金は6091万5700円だった。公認パーフェクトは2回。選手データに残る公式戦の記録は2003年度が最後で、この年度は60歳を過ぎて30ゲームを投げた。

年 大会
1969年 女子プロ誕生記念
1970年 第1回全日本女子プロボウリング選手権大会
1970年 東海女子プロトーナメント
1970年 第4回全日本オープンボウリング選手権
1971年 第5回全日本オープンボウリング選手権
1972年 第1回東日本女子選手権
1973年 第7回全日本オープンボウリング選手権
1973年 第5回全日本女子プロボウリング選手権大会
1975年 チャンピオンリーグ 王座決定戦
1979年 第2回JLBCプリンスカップ
1980年 中日スポーツ杯 第6回24トーナメント
中山律子さんの主なタイトル出典: 公益社団法人日本プロボウリング協会「訃報」(2026年11月7日)

ライバルの須田開代子さん、ブームの後の40代

同じ時代を争ったのが、ライセンス「No.1」の須田開代子さんだった。インタビューでは「努力の須田開代子、人気の中山律子」と比べられたことに話が及んでいる。須田さんは4歳年上で、中山さんは自らの通算33勝に対し須田さんは44勝だったと挙げ、「私はヘタなほうでした」と語った。速さと力に頼り、曲がるボールを投げられなかったという。

一方で、普段の須田さんは「仲のいいお姉さん的存在」で、互いの投球について助言し合う間柄だった。2人は同じ1974年に結婚している。須田さんは57歳で亡くなった。がんの闘病中に見舞いを申し出た中山さんへの返事は「絶対に来ないでよね」だったといい、中山さんは60代になってから語り合えなかったことを惜しんでいた。

ブームが下火になった理由について、中山さんは「ボウリング場が増えすぎたのと、オイルショックが大きかったですね」と述べている。その後はボウリング場と契約して全国で指導にあたった。40代からはけがが続き、左ひざの手術、右肩の痛み、右ひざの不調で2年間の完全休養を余儀なくされた。これを機に、力と速さの投球から回転とコントロールを重んじる投球へ切り替えた。

女性初の協会会長、2017年に殿堂入り

競技の第一線を離れたあとは、組織の運営に携わった。協会の略歴によると、1998年にJLBCの会長に就任し、2004年にJPBAの会長に就いた。インタビューによると、女性がJPBAの会長に就くのは初めてだった。JLBCは1976年に須田さんの尽力で生まれた女性だけのクラブだった。インタビューによると、会長在任中の2006年には女性アスリートによる「P★League」を創設した。本人はテレビでの露出を考えた組織だと説明している。

2012年に会長を辞任して名誉会長となり、2017年に日本プロボウリング殿堂入りを果たして名誉会長も退いた。2018年にはJLBCの会長を辞任し、同クラブの名誉会長となった。

名誉会長の時期に重んじたのは高齢の愛好者だった。インタビューでは72歳の自身の実感として、軽いボールを使い、自分のペースで投げられる点を長所に挙げ、シニアのボウラーを増やしたいと語った。中国語でボウリングを「保齢球」と書くことを引き、年齢を保つスポーツとして広めたいとも述べている。

第1回テストの合格者が13人だった女子のプロは、協会によると2026年5月16日現在で372人にのぼる。男子は748人で、プロ・インストラクター8人を合わせた会員は計1128人。2025年度の第57回女子テストには18人が受験し、10人が合格した。