日本銀行の植田和男総裁は11月6日、国際通貨基金(IMF)の講演で、日本の経常収支の黒字が40年ほど続いてきた理由を、企業の行動の変化から説明した。黒字の中心は輸出で稼ぐ貿易収支から海外投資の収益に移り、その収益の黒字は国内総生産(GDP)比で6%以上に達する。総裁は黒字を「極めて持続的」と述べる一方、要因は「必ずしも一定ではない」と語り、国内投資が増え始めた最近の動きを「変化の兆し」に挙げた。日銀が7日、講演の邦訳を公表した。

黒字の中身は貿易から投資収益へ

講演は「Michel Camdessus Central Banking Lecture」と題する催しで行われた。テーマは「日本の経常収支黒字と企業行動の変容」である。経常収支は、モノの輸出入を示す貿易収支、輸送や旅行などのサービス収支、海外投資の配当や利子を示す第一次所得収支などを合わせたもので、日本と海外のお金の出入りをまとめた統計だ。

総裁によると、1980年代初めまでの日本の経常収支は、赤字と黒字を数年単位で行き来していた。その後は黒字が定着し、この40年程度、黒字幅はおおむねGDPの2〜4%で推移している。

変わったのは内訳だ。1980年代半ばに貿易収支の黒字はGDP比4%以上あったが、徐々に減り、赤字に転じた。総裁は講演の注で、財・サービスの貿易収支は2010年代初頭以降、多くの時期で赤字だと説明している。逆に、1980年代半ばにほぼゼロだった第一次所得収支の黒字は、GDP比6%以上まで増えた。

財務省の統計でも同じ構図を確かめられる。2025年度の経常収支(速報)は34兆5218億円の黒字で、このうち第一次所得収支が42兆2809億円の黒字だった。貿易収支はこの年度に1兆3631億円の黒字へ転じたものの、サービス収支と合わせると2兆5146億円の赤字になる。直近の2026年8月は貿易収支が6877億円の赤字に戻り、第一次所得収支の5兆1332億円の黒字で、経常収支は4兆620億円の黒字を保った。月ごとの動きは5月の経常収支、3兆9683億円の黒字 貿易収支は黒字に転化 輸出14.7%増 財務省でも伝えている。

項目 2025年度(速報) 前年度からの変化
貿易収支 1兆3631億円の黒字 4兆3940億円改善し黒字に転化
サービス収支 3兆8777億円の赤字 赤字が7412億円拡大
第一次所得収支 42兆2809億円の黒字 黒字が8725億円拡大
第二次所得収支 5兆2445億円の赤字 赤字が351億円拡大
経常収支 34兆5218億円の黒字 黒字が4兆4902億円拡大
2025年度の経常収支の内訳出典: 財務省「令和7年度中 国際収支状況(速報)の概要」

総裁は19世紀後半から20世紀初頭の英国を似た例に挙げた。英国も経済の成熟につれて貿易収支が赤字になったが、海外投資の所得で経常黒字を保ち、20世紀初頭にはその純所得が国民所得の8%近くに達したと推計されている。総裁は、かつて世界の工場だった日本が「世界に対する資金提供者」の立場になったと述べた。

高齢化でも黒字が消えなかった理由

講演の中心は、この黒字を誰が生んだのかという問いである。経常黒字は、国内の投資を上回る国全体の貯蓄の大きさと一致する。国内で使い切れなかった貯蓄が海外へ向かう、という関係だ。

標準的な経済学では、高齢化が進むと家計が資産を取り崩し、国全体の貯蓄率が下がって経常収支は赤字へ向かうと予測される。日本の家計は実際にその通りに動いた。1990年代半ばまで家計の純貯蓄が黒字の主な要素だったが、その後の30年で大幅に減っている。政府部門でも財政赤字の拡大基調が続いた。

それでも黒字は消えなかった。総裁が理由に挙げたのは金融機関を除く企業の行動である。1990年前後の投資ブームの後、企業の投資率は20年にわたって下がり、貯蓄率は上がった。1990年代後半には、企業は資金を借りる側から大幅に貯める側へ移り、現在までその状態が続く。総裁は、企業の変化が人口動態による予測を「完全に覆す形となりました」と表現した。

出発点は1980年代半ばの貿易摩擦だった。経常黒字の大半を貿易が占めていた当時、日本は1986年の前川レポートのもとで内需の拡大と労働時間の短縮を目指し、急速な円高に対応する積極的な緩和政策も実施した。こうした政策は、振り返れば1980年代後半の投資ブームと株式・不動産価格の急騰につながったと総裁は述べている。

バブルが崩壊すると、保有資産の価値は大きく下がる一方、名目の債務はそのまま残った。日本の資本収益率は1990年代に急落してバブル前の水準に戻らず、比較的安定していた米国との違いが際立つ。企業は1990年代後半から2010年代初頭にかけて債務の返済を最優先の一つとし、国内投資を抑えた。総裁は企業行動に残った影響を「構造的な傷跡」と呼び、この守りの姿勢は財務の健全性が回復した後も消えなかったと説明した。

貯蓄の行き先は海外の直接投資に

バランスシート(資産と負債)の調整は段階的に収まり、より明確な転換点は2011年から2012年ごろに現れた。ただ、企業の貯蓄は高い水準にとどまり、その多くが国内の工場建設などではなく、海外の企業や拠点に資本を投じる対外直接投資へ向かった。

日本からの資本流出の内訳(%)

1996〜2011年2012〜2025年

証券投資53.926.2直接投資21.046.5その他25.127.4
金融収支の資産側(金融派生商品を除く)に占める割合出典: 日本銀行「日本の経常収支黒字と企業行動の変容」図表10(出所は財務省)
数値で見る(単位: %)
項目1996〜2011年2012〜2025年
証券投資53.926.2
直接投資21.046.5
その他25.127.4

講演の図表によると、資本流出に占める直接投資の割合は、1996〜2011年の21.0%から2012〜2025年は46.5%に上がった。証券投資は53.9%から26.2%に下がっている。総裁はこの配分を「合理的なもの」と位置づけ、対外直接投資の収益率が、調整期の後の多くの期間で8%を超えたと説明した。

見落としやすいのは、その収益の行方である。総裁は、海外子会社の収益のかなりの部分が現地に留保され、再投資されていると述べた。この収益は第一次所得収支の黒字を増やし、再投資分は新たな対外直接投資として記録される。講演の注は、海外子会社の所得の大部分は日本に送金されていないが、統計上は日本企業の貯蓄の一部に分類されると補足している。統計上の黒字の一部は、現金として国内に戻っていない。

海外投資の積み上げは資産の残高にも表れている。財務省によると、2025年末の対外純資産は561兆7504億円で、前年末から23兆6495億円増え、8年連続の増加となった。資産側の直接投資は384兆5350億円ある。

企業の判断は、日銀が2023年11月から2024年2月ごろに実施した調査で読み取れる。全国2509社を対象に2256社が回答した調査で、経営者が国内投資の低調な理由として最も多く挙げたのは「成長期待の低下」だった。1990年代と2000年代は「債務圧縮・財務改善圧力」が、2010年代は「将来に備えた現預金の蓄積」が目立ち、大企業は海外の投資や合併・買収(M&A)を優先した。金属製品の企業は、ゼロから海外へ出るのではなくM&Aで「時間をお金で買う」ことにしたと回答している。

人口減少だけでは説明できないと反論

講演は別の有力な説明にも触れた。生産年齢人口が減ると国内で資本が余り、企業が資本を海外へ移す結果、貿易黒字が第一次所得の黒字に置き換わるという、人口動態に基づく理論である。

総裁はこの理論を「洗練されています」と評価しつつ、前提として1990年代から2000年代の労働市場が極めて逼迫していた必要があると指摘した。実際のデータは逆を示す。日銀が公表している需給ギャップ(経済全体の需要と供給力の差)は1993年から2012年までほぼ一貫してマイナスで、失業率は同じ20年で平均3%を大幅に上回った。女性や高齢者の労働参加が増えたため、就業者数も長い目では増えていた。

総裁の結論は、人口動態の影響そのものを否定するものではない。ただ、経路が異なる。1990年代の企業が人手不足に直面したからではなく、国内市場の縮小が予想された結果、国内投資の期待収益率が下がり、対外直接投資が促されたとの見方である。深刻な労働力不足が現実になったのは近年のことだと総裁は述べた。

人手不足が国内投資を促す 「変化の兆し」

その人手不足が、今度は企業を国内へ向かわせている。先の調査で、過去と比べてどちらかといえば設備投資に積極的になったと答えた企業は7割を超え、理由で最も多かったのは人手不足への対応だった。大企業からは、脱炭素やデジタル化、サプライチェーン(供給網)の国内回帰を理由に挙げる声も聞かれた。日銀が2025年12月に公表した別の報告も、地域企業でAIなどのデジタル技術を含む省人化投資が拡大していると指摘している。

総裁によると、感染症の流行後の設備投資は、1990年代初頭のピークをついに上回った。銀行貸出の伸び率は直近で5%以上に達し、政府が小規模企業への融資を支援した2020年を除けば過去30年で最も速いペースにある。総裁は、緩やかな物価上昇の復活に助けられ、企業のリスクテイク姿勢が「目覚めつつある」との見方を示した。

では、日本は40年前に描いた「内需主導型の調整」を実現しつつあるのか。総裁はこの問いの答えは「いまだに明らかにはなっていません」と述べた。高齢化による家計の資産取り崩しの加速や、国内投資の拡大による企業の貯蓄余剰の減少は、国全体の貯蓄と投資の差を縮める方向に働く。一方で、日本は巨大な対外純資産を持ち、海外投資の収益率も国内を上回っている。総裁は第一次所得収支の黒字が「今後何年にもわたり、日本の対外収支の持続的な柱であり続ける」と見通した。

講演は長期の構造分析で、金融政策の先行きには触れていない。足元の政策判断の説明は日銀・植田総裁、基調物価2%到達は「一つの節目」 据え置きは「リスクをもう少しみる」 会見録公表にある。総裁は結びで、この歴史から異なる政策のもとで経常収支がどう変わったかは導けないと断ったうえで、対外収支の調整を理解するには投資の動機、企業のバランスシート、人口動態の変化を併せて見る必要があると述べた。